豪雨 その3 ダムが満水になると放水することは常識

 今回の豪雨で被災された方お見舞い申し上げます。また亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。
これからは復旧、復興をするときに本当の意味での自治体の力が試されると思います。僕も何ができるか考えています。
 今回の豪雨で、愛媛県の野村ダムの放水により下流に洪水が起こり犠牲者が出てしまいました。また避難できなかった方、サイレンが聞こえなかった方が多くいらっしゃったということを報道で知りました。またどうしてあんな量の放水が必要なのか?、自治体からの避難指示がなかった。という声が上がっているということでした。
 しかしながら、あの日の夕方には大雨特別警報が発令されていましたし、数十年に一度の大雨だと警鐘していました。そして、この事故を知っていれば、ダムは放水することを知らなければいけません。1999年に起きた玄倉川水難事故です。少なくとも1985年生まれくらいからは知っているはずです。僕は1970年生まれのおっさんですが、小学校高学年くらいから、ダムの下流は放水するからその川で遊ぶな。ときつく言われました。もしこの事件を覚えていたら、「人の言うことを聞かないからそうなったんだ。」と思うか、「ダムの放水は人の命を奪うときがあるんだ。」と思うかでも大きな違いがあるはずです。そして、ダムが決壊したらそんな犠牲者では済まされないからダムは放水するんです。
 この二つの事実を知っていれば数十年に一度の豪雨で、ダムが満水となり、いつもの数倍の排水が行われ、それが洪水になる可能性がある。ことくらい想像できると思います。それを自治体がーとか、ダムの管理者がーと後からいくら言っても、命は戻ってこないんです。前も書きましたが、後の祭り,覆水盆に返らずです。
 どこかの新聞記事で読みましたが、ある土砂崩れ現場であるおじいさんが、「うちは大丈夫、心配ない。」と言ってお孫さんが犠牲になっていました。とても痛ましい事件だとは思いますが、何がそこに留まらせたのでしょうか?。科学的見解ではなく、おじいさんの今までの経験もしくは、避難するのが面倒だ、どうして雨くらいで避難しなくちゃいけないの?という思いではないでしょうか。
 前回も書きましたが、自治体や国にその責任を求めたい気持ちはわからなくはないですが、自分の身は自分で守る、それが例え自分の親が「ここにいても大丈夫」と言おうが、そこに親が居座ろうが、自分の妻・子供は自分で守らなくては現代の災害を避けることはできないのです。いくら砂防ダムがあろうが、ダムができて水害が無くなろうが、自然の力に人間が勝てないのは今も昔も変わりません。
 避難して命があるからこそ、これから復興していかなくてはいけないのです。死んだらおしまいです。そして、これを言ったら申し訳ないのですが、そういう危険な場所を選び、もしくは先祖代々その土地に住んでいるのですがら、そのくらいの責任感は必要です。もし知らなくてそういう土地に住んでいるのであれば、誰かの責任にするのではなく、自分の無知を悔いたほうが良いと思います。
 ただただ残念なのはそういう判断能力が無いお子さんが亡くなったり、行方不明になっていることです。
 すべての事柄命があってのことです。アントニオ猪木ではないですが、命があれば何でもできるのです。

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